自由への反省

・今まで感じていた違和感がひとつわかった。やはり話せない、読めないのに、それを「翻訳」だとくくることの暴力性だ。翻訳の自由とはいいつつも、それがただ言語的な収奪になってないかという違和感。確かに話せないし、少しでも関係をほどきなおすために言葉にすることは大事なのだけど、今のやり方が人間的なやり方かと言われると非人間的、非思想的だと感じた。

 

これでよかったのかな、というのは今回の号だけでなく、これまで全てに対して思うこと。

 

・日記、済州、アルトゥルとつながっていくところについても、韓国の人に向かって何を書いているんだという感じ。これが面白いか?また他の人の意見を聞いているとはあまり思えない。越境とはなにかということをすごく考えさせられる。言語的な翻訳を越境と言えるわけがない

 

でも読み返したらいい雑誌だなーー